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その後の五稜郭

Goryokaku after

役目を終えて解体された箱館奉行所。しかし、その後も五稜郭はこの街のシンボルとして存在してきました。函館に暮らす人びとが見つめてきた原風景をたどります。

箱館戦争後の奉行所解体

明治2(1869)年、箱館戦争の終了後、五稜郭は明治政府兵部省が管理することになりました。同年には開拓使が設置され、新政府による北海道の統治が始まりましたが、五稜郭を役所として利用することはありませんでした。このころ、箱館は函館へ、蝦夷地は北海道へと名称が改められています。

明治4(1871)年には、札幌に新築する開拓使本庁舎の材料とするために、旧箱館奉行所と付属建物の大部分が解体されました。しかし、役所の材木が札幌へ送られることはなく、民間に払い下げられるなどしました。こうして箱館奉行所は、完成からわずか7年で姿を消してしまいました。

その後の五稜郭〜練兵場から公園、そして史跡指定

明治6(1873)年から五稜郭は陸軍省の管轄となり、練兵場として利用されました。積極的な利用(開発)がなかったおかげで、五稜郭の土塁や石垣・堀割などは、現在まで築造当時の姿をとどめることができたのです。

大正2(1913)年、函館区長は陸軍大臣にあてて「五稜郭を公園として無償貸与してほしい」という請願書を提出しました。原形の変更は認めないなどの条件付きで使用許可がおり、大正3年から五稜郭は公園として一般開放されました。

大正11(1922)年、江戸幕府の奉行所跡であり、土塁や石垣などの保存状態が良く、洋式築城法による重要な遺跡であるとして、五稜郭は国の史蹟に指定されました。また、昭和4(1929)年には五稜郭外(堀外周の長斜坂など)が追加指定となり、昭和27(1952)年には北海道唯一の国の特別史跡に指定されています。

  1. 明治3(1870)年冬、中川嘉兵衛(なかがわかへえ)が、当時好水質であった亀田川から水を引き入れていた五稜郭の堀での採氷に着手し、翌年には五稜郭産の函館氷が京浜市場に登場しはじめました。また、大正11(1922)年~昭和43(1978)年まで、五稜郭公園前に函館商業高等学校の校舎があり、プールが無い時代は五稜郭の堀で水泳部が練習をしたり、冬期には子供たちのスケート場として利用されたりした歴史もあるようです。

郭内外の樹木、アカマツとサクラ

復元された奉行所を取り囲むようにそびえ立つアカマツは、五稜郭が築造された当時に植樹されたもので、樹齢は約160年となります。

また、五稜郭の春を彩るサクラは約1500本あり、そのほとんどがソメイヨシノです。五稜郭のサクラは、大正3(1914)年から大正12(1923)年にかけての植樹がはじまりです。当時の地元新聞、函館毎日新聞社が、公園として開放されたばかりの五稜郭に、発刊1万号記念に1万本のサクラを贈ったのがきっかけです。

失われたものと残ったもの

昭和29(1954)年には、北洋漁業の再開を記念して開催された「北洋博覧会」の会場となり、多くの人が五稜郭につめかけました。このとき郭内に建てられた建築物は博覧会終了後に撤去されましたが、物産館として使用されていた建物だけが残され、市立函館博物館五稜郭分館として再利用されました。

また、箱館奉行所が復元される前の郭内中央の広場では、長年にわたり市内の小学校・幼稚園の運動会などが開催されてきました。

五稜郭の北側に建築された役宅は、箱館戦争時に五稜郭籠城に備えた旧幕府脱走軍によって焼き払われ、その後昭和初期までは、牧場や畑地などになっていました。戦後は、五稜郭周辺にも民家が立ち並ぶようになり、原野にあらわれる五稜郭という築造当時の面影は失われました。

しかし、当時の痕跡を見ることもできます。市立函館高校と函館大妻高校の間にあるアカマツを含む五稜郭風致保健保安林(名所や旧跡の景色として維持・保存する森林)は、築造当時に五稜郭の外側に設けられた「土塁林」の名残です。