五稜郭と箱館奉行所
Goryokaku and Hakodate magistrate's office蝦夷地の統治、日本の威信、新時代への予感。五稜郭と箱館奉行所は、日本の北辺防備と外交を担った開港地ならではの存在でした。
箱館山山麓の奉行所は対外防衛に不利
箱館の開港当時、奉行所は箱館山のふもとにありました。そこは現在の元町公園がある場所で、奉行所から箱館の港と町を一望できました。しかし、奉行所からの見晴らしの良さは、箱館に入港する外国船からも奉行所が良く見えることを意味します。
箱館港に出入りする外国の軍艦からは、格好の標的になる防備上危険な場所に奉行所は建っていたわけです。また、港から5里四方を外国人遊歩地としたので、箱館山の山頂付近から役所や役宅を見通される恐れが懸念されました。
そこで、箱館奉行所の移転が検討されることになりました。また、箱館港周辺の防衛対策として、港湾を取り囲む台場(砲台)の整備も同時に進められました。
奉行所移転先は亀田村柳野に
箱館奉行所の移転先に選ばれたのは、箱館の隣村・亀田村にある柳野と呼ばれる緩やかな丘陵地でした。港湾から約3kmほど離れた場所で、これは当時の大砲の射程距離から外れていました。箱館の市中からそれほど遠く離れた場所ではなく、赤川(亀田川)から清流を引き込むことができ、さらに周囲にある泥沼や曲がりくねった道が防衛上の利点になると判断されました。この地に、四方を土塁で巡らせた役所を建てる計画が決まり、箱館奉行支配の諸術調所教授役で蘭学者の武田斐三郎が設計を行うことになりました。
この役所を囲む土塁こそが、亀田御役所土塁すなわち五稜郭です。
当時のヨーロッパの築城術に習った五稜郭
五稜郭は、設計当初から星形の土塁を計画していたわけではありません。武田斐三郎は、これまで蘭学で培った知識と、安政2(1855)年に箱館へ入港したフランス軍艦の軍人から得られた情報などから、大砲や小銃による戦闘が中心となったヨーロッパで考案された稜堡式築城術を基に五稜郭築造を設計しました。
箱館奉行が幕府に提出した文書には、「箱館に入港する外国の軍艦は、どれも大砲が充実している。それに対応するためには、西洋各国で採用されている築城術を参考にして、西洋式土塁の方法で役所を築造したい」と書かれています。
武田は模写した図面に独自の工夫を加えて設計図を完成させ、安政4(1857)年の春から五稜郭の工事が始まりました。途中、予算不足による縮小(半月堡を5か所から1か所に減らす)など、当初の設計や工事計画の変更がありましたが、万延元(1860)年には土塁・掘割・石垣の工事が完成しました。


